2011年5月27日

字喃やハ ング ルの使用初期には、漢字入り混じりで使用されていたらしい。例えば、ネットで検索すると、日本のある私大創立者が、ハ ング ル漢字入り混じりの新聞を一時期、発行していた、などとある。日本でも、漢字をいわば“援用”、そして観測基準・方法に拠り五回から十数回、漢字が日本語に流入した。現代の日本語は、漢字以外はひらがなが主流となった。

ところで、日 本 の文 学や本の、大衆的最盛期は戦前から戦後数十年くらいまでだ、とする意見がある。だいだい戦前から三島氏くらいまで、という。

字喃だけ、クオックグーだけ、ハ ング ル だけ使用されるようになると、いっきに形式上・様式上の複雑美はリセットされる。本家の漢字文化でも、白 話 文 学 運動や簡体文字化などがあった。

日本では、本とは技術次元が違うメ デ ィアで、白話運動ならぬ白痴プロ パガ ン ダが、テレビ 原 発 ・プ ロ 野球をプ ラ ットホーム・メディ アイ ン フラとし、人・モノ・カネを投下して展開された。例えば日本の原 発 コー ポラティズムが邁進した結果、統治機構や学者やマ スコ ミが本来有している筈の統治・分析・情報供給能力を、国民は、結果 的に享受できなくなり、いわばそれらは、“外形標準上”白痴化した。原 発コーポラテ ィズムという術により、統治機構や学者やマ ス コミ がまるで金 縛 りにあったかのようになるのを国民がいまや眼前とする。ちなみに、マ ッ カーサ ー氏の3Sのうち、スクリーンはテレビを主力に、スポーツはプ ロ野 球を主力にすると翻 案できるが、最後のSは原 発とは絶対整合しない。しかし、このSは冤 罪を作って失脚させる手法などとして、よく使用されているようだ。

実は大衆化しなくなったようにみえる本の価値自体は変わってはいないのかもしれない。現代、学生は勉強せざるを得なくなって初めてテレビ視聴時間を減らして、文字が創る世界に親しむ人も多いだろう。それより以前に本に触れるべきか、とも思う。しかし、いくら ゆと り 教 育があったからといって日本人の識 字率 が急 低下するほどではなかった。義 務 教 育 で強制的に新聞学習を扱うことになる先生達は、ネットやツ イ ッターの善い面もそれとなく、いや、密やかに?伝えるのだろうか。乳児や幼児のツ イッ ター?ちなみに、いつも思うのだが、電子ティーチャーが実現するくらいの技術進 歩があれば、電子ブックも、もっと普及するのではないか。