7月27日

古村治彦氏のブログを読んだ。MSN産経ニュースで、森氏と通称ナベツネ氏が揃って民主・自民の大連立に賛成した、という記事が扱われていた。見のがしていたニュースも、複数のかたのブログを閲覧しまわっていると、結果として知ることができ、そういう意味からも皆さんに感謝する所存です。

政党、または、連立のうちどちらかを制限してみる方法には、いろいろ考えられるのだろう。

まったく連立しないとなると、ねじれた両院の間は法案が通りづらいという現実にあわせてしくみをまげられないから、プラグマティックに?こまる、という。または、そういう建前が採られる。

歳費をもらっている政治家やその他、関わる人々は、小選挙区制度導入の前後、このねじれるリスクを説明する責任をしっかりはたしていたのか。

政党を制限して連立を重視するのは、政策ごとの部分連合であるなら、これを極論まですすめていくと、その最も極点にあるのは、政党とは関係なく、政策ごとにプロジェクトをつのり、それに国民の信任を求める、といったしくみかもしれない。しかし、「連立」という語自体、プロジェクトのグループやリーダーの集合離散と相容れる語というよりは、既存の政党を前提に組まれた語だ。

いちおう、政党性と連立性を両極として、どちらかを制限する、という途方もなくかんたんなモデルを立てるため、連立性重視の極点では、政党とは関係なく人間単位で組織的営為を行うことも、「連立」にふくむこととしてみる。

つまり、上記の極点に到達するまえに、当該しくみは、政党性が完全に消えることも当然だが、政党性が消えたら「連立」の意味も、理論上変容するということか。

だから、連立のしくみは、人治主義的な面が多すぎて、現代日本の民主主義にとって、あやしいし、古すぎる。

既存の政治家が想定する、政党をそのままにして、大連立するということは、政党性は重視・拡大しつつ、連立性も、政党が有する党派性を極限にブーストした点で重視する、という意味ではないのか?民主・自民だけが連立して、当然他党は連立対象として考慮されない、という、連立のしくみを、党派力学を稼動させるために使用する、のが前提ではないのか。

ということは、政党、または、連立のうちどちらかを制限するということと、政党をそのままにして、大連立するということとではまったく異なる。違う。虚無僧が吹く尺八と武将が吹く法螺くらい違う?

政局の内実のうち、個人攻撃や党派力学は、実は必要ない。ましてや、個人攻撃や党派力学は、一見内部闘争に見えて、本当は、わが国政局に対し、国の内外から影響が与えられてしまうとばぐちとなっていないか。あくまで議論の範囲内での内部闘争がまっとうな政争ではないのか。

政局をなすには、議場や議場の周囲での集合離散のアート・テクネという基本をまず確実に挙動できるようにしてもらいたいものだ。



2011年12_27
豆 や麦をあまり 直 接食 べず に、豚や 牛を所 謂先 進 国の人 達 が多く囲い込ん でいるのが、食 糧分配 上の不 公 平の原 因で あると主 張す る人 もいる。
と ころでここ で、化 学物 質によ る味 のエン ハン スや他 の 食 材へ の味 覚偽 装?の話 だけで も、せめ て 組み合わ せて小 考し てみ る。
す ると、妥 協 点のひ と つは、化 学物 質を使わ ない味のエ ン ハンスや味 覚偽 装した、豚 や牛の 味の豆や 麦を、先 進国で食 べるよう にすること なんだろ うか?
ち な みに、“ 肉 っぽい味の豆 腐 ”を食 べて いた日 本のお 坊さ んは、中 世に、女 性の格 好 をさせ た少 年をおち ごさ んとして使 っていた、とい う主張を する人も いる。こ れ が本 当か どう か“風 と木の 詩”にた ずねてみ ても、そ れは、the answer is in the windなの か、そ れと も、山 は 蕭 然 とし 浜は 松 籟も 聞 かず、といった ところ なのか。