9月13日

ここに見られるのは品 性と蛮性、論理・仮想構築力と本能的衝動とが織りなすパズル、脈動するまだらな組み合わせ、である。対立するもの同士が組み合ってはいるが、混ざって中和などせず、むしろ、絶えまない反応を引き起こす。

覊束行為として、歩調や、いわば射撃調をあわせるのは、小集団内の究極の同 調 圧 力でもある。組織内の内圧が強ければ、当然その組織は強い。噴火する内圧が、動きの節々から立ち昇るようなマーチング、ツカや撃鉄を引きしぼっていないのに、子供の眼にも禍々しく鬼気が沸騰するようなマーチングを、即物的に、まるでモノであるかのように遂行できる集団は何をやっても強そうである。敵前で陣形変換をしたり、そのとき、銃弾や、人間ボーリングのボールのような相対的低速になった砲弾や、いわゆる葡萄弾によって、里の話や身の上話を幾夜も交わした戦友が、りゅうりゅうと飛沫をあげる何オンスかとなって、挨拶なしにこづきあてて来、返り血を重ねられても、機械仕掛けの人形として、行進や装填や射撃を、リズムをあわせなければならなかった、リズムの拍子の頭に、怒りや、やるせなさの慟哭をあわせなければならなかった、あわせざるをえなかった、エネルギーが炸裂し爆発しているのに、一方で、まるで、他の人生を見渡せた人間はそのときの地球上に何人もいなかったような閉塞の時代を、その時代に生きて垣間見た人は今一人もいないはずなのに、余裕しゃくしゃくと、ヒト一人の寿命など無視するかのようにシームレスに歴史区分を引きちぎって、満ち溢れる生と死と狂気と制御された理性とを、今、眼前に伝え撃って、震撼させるような軍隊がある国は、何をやっても強そうに思われてしまう。

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2012-02-13
小学校から外国語を公立で教えるのはべつに賛成だが、英語に決めつけるのは、おかしいと思う。

この観点からも、日本は独立もしていなければ、かといって、アメリカにくみこまれてもいない存在だ。アメリカにくみこまれれば、アメリカ内部で日本語が最大言語集団となり、そのとき投票したらアメリカの公用語は日本語となりうるくらいだそうだ。

英語での引用論文数など、学術面での話しは、私たち殆どに関係がない。私立は、教えたり、受験科目にしたりする外国語を自由に選べばいい。

近隣の国の外国語などを学びたがるかもしれない生徒を、英語に、早々に、人数の面で量的に転向させるインセンティブばかり構築したがる。中1を小5等に早めても、全体で2年ぶんだけ、もし改善されたとして、いまの英語力の平均的な時系列に沿った個人における盛衰が特段改善する見込みがあるのだろうか。

LL教材・設備の導入、逆に、電子ブックの不導入からして、結局、これも利権なのだろうか。

多くの反例のうち、一つを挙げると、世界の若者に受けている、日本のサブカルチャー、マンガやアニメ、例えば、マンガは日本語使用の、日本の文化環境での発想がされていないか。