9月19日

ラ ー メ ンのタレやレストランのソースを、作り足しつつ味を維持しようとする事例を仮定する。
最初に作った人も不明でレシピもない場合、当の料理人さんたちは作り足すごとに味が変わってしまうという、いわば“問題設定”に対し、どう作ればこうなるのか、よくわからないけど、今のもうけもへらしたくない、とも思うのではないか。
動的に連続ヒットを創れるような主体というのはキャッチ・アップ型からは育たないか、否か。

ここで、以前と似たような、新たで、少し派手で、はっきりとまずくはないだけの味を打ち出して対処したとする。
店のお客さんで、変わらぬ味という、スーザーとしての意義・ちょっと記号化した意味を、食に求めていた人々は、いいも悪いもなく、味が変わったら去っていくだろう。
以前の味ほどおいしくはない味に変えて、もうけは維持したとしても、評判は下がるかもしれない。

いさぎよく店をたたんで、別の看板で新しい味をはじめれば、たたんだ店の評判は高止まりした後、もう営業していないという、究極の希少価値で評判はどんどん上がるかもしれないが、たたんだので、もうけはそこで途絶える。
以前の味よりおいしいくらいの味を創れれば、評判ともうけが維持されるかもしれない。

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2012-02-19

楽観悲観論など、あまり面白い果実を得る気がしない。敢えて使うなら、あたかも悲観論のような現状認識と高い士気の組み合わせが、結果の産出量が多そうである。

仮に、状態である迷いと、量である悩みが、悪い産出であるとしてみる。すると例えば、悲観によって、悩みが増すから楽観しようというのは、楽観によって逃避しよう、と近いことになる。楽観と悲観をリズムとして繰り返して、悩みが増したままにするよりは、調子のいいときに、悩みの中の雑音を排除してシグナルを読むべきだ。悲観だけを続ければ、良くも悪くも、悩みはそのうち破壊されうる。また、楽観ばかりしていると、存在する迷いを見ずに、継続させてしまう。