2010年12月28日

既存の物がそこにあったり、由緒・来歴に縛られていたり、政経・法上の利害が積み重ねられていたりしていても、問題を考えるときはゼロベースで考えることも必要だ。

ところで、組織・物・資金・権利等を所有するのにゼロベースからでは大変だ。でも、官費や公費を使っていた人が独立する際に人を引き抜いたり、公費で留学した後に公的組織を辞めて独立したりするのは、グレーゾーンではないのか。そもそも私的独立の出資金集め等と違い、リスクや競争を避けた、見えづらいのに保護されていないか。

ここで、アメリカはその独立ならぬ国力回復をするのに、日本との公的関係を最大限利用しているのではないか、ということも引き合いに出したい。

日本は、国際関係に対しゼロベースでの問題分析・解決案の策定をしつつ、他国との公的関係により生ずるリソースを引きつけ借りつつも、あるとき、脱兎の如くして、対等な関係に持ち込むぐらいでないといけないと思う。国家レベルではいわゆる借りパクも策の一環なのか?

ネイティブ・アメリカンもアジア系だと思うが、インディアン・ベッガーという語があるらしい。所有概念の文化摩擦、または、ただの意思疎通の問題として、くれたと思っているものを返しにやってこられる、ということがあったために、この語が生じたとのことだ。「借りパク」と「インディアン・ベッガー」は、だから、軽く対比をなしている。

借りパクの法的性質やその国際関係への推論や裨益は置いておくにしても、思いやり予算を上方に圧力をかけて維持させた割には、安保は紛争発生後にアメリカ議会の承認を要する過程が内包されていたり、核の傘は幻想に近いほどのものだったりした。アメリカのミサイル売り込みの内幕も少し明かされた。

経営改革や政治改革においては、利害の積み重ねと、ゼロベースからの問題発見・解決案に沿った舵取り、のどちらも攻撃側・防御側になりうるだろうが、ほうっておいても利害は日々積み重ねられる性質のものだから、年に一度程度はちゃんと査定してほしいものだ。