2011年1月10日

三島由紀夫氏の「〜精神講和」文春文庫を読了。
「礼法について」
英米流のレディー・ファーストを採り入れた日本料理店を題材の嚆矢としている。「礼法そのものは一つのゲームと思えば何でもない」という感覚と、「そしてそのゲームにいろいろ自尊心の問題がからんでくるからやっかい」という感覚が紹介されている。そして、「伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻ってはこない」とも言及する。
「服装について」
伝統的な服装の放棄について述べ、他の国の伝統的な服を着ることも述べられている。服と階級と階級の持つ快楽および封建的桎梏についてもふれられている。
「長幼の序について」
日本の戦前の階級社会およびその例外だと三島氏が考える軍隊の社会、そして戦後の「老人社会」も例として挙げられ、人は世界がかわろうとも序列をつくるものだと確信していると述べた後に、「長幼の序が重んじられなくなると、逆転して、人々は「若さ」をもっとも尊敬しなければならなくなるにちがいない」などという言葉で作品を締め括っている。
「努力について」
努力による立身出世と、全体主義的要請からくる能力抑制とを描いている。

ある礼法を守るべきところでは、自分の気持ちをあらわさずに、型どおりの礼法を行えばいいと思う。礼法は、究極的には保存・昇華された慣習で、社会的なしくみの知恵であったりするが、いったん完成されていれば、人の思考の介在は許さないものだと思うからだ。
ガイアツを感じる人、英米流にあこがれる人は、それが具現化できるところに行けばいいし、自分の近くにそういう場所をみつけるか、創造するべきだ。
礼法の多様性が、なるべく認められるように環境設定した上で、伝統的な礼法が、博物館の中だけで伝えられていくのか、それとも廃れずに世にあるか、世に問えばいいはずだ。
そうすると、何世代もの長いあいだには、ほとんどの礼法は変遷するか博物館行きになる。
ここで、長いあいだにもそれほどかわらなかった礼法というものがあったなら、それは、「賞味期限」がないものなのだから、自分達で意識的に守り育てても、いいのではないか。
少しずれるが、吉良上野介氏は、作法を教える仕事をしており、この人へのあだ討ちを題材とした戯曲・演劇が、一定の人気がある、あったのは、たまたまなのか?
建設的で論理的で意見交換した社会的な合意形成というのは、例えば、今のネット上などで、できるものなのか?広告・マーケテイング・マスコミが、もうかるんだとか、かっこいいんだとかいって、流行らせれば、個々人は、価値をたいして確認せず、社会的な合意となるのか?すると社会科学分野の情報は格差ではなく階級社会状態なのか?
国境や文化圏を越えて人や財が流動性を増せば、礼法などの担い手に、他の文化圏出身の人がなることが多くなるはずだ。礼法の本質的な部分がより、結晶化していけばいいが。
担い手ではなく、礼法自体の外来種が在来種を駆逐したり、礼法の融合種ができたりすることはあるのだろうか。
礼法が結晶化していく段階で、それが内包していた、封建的な性格が切り離されるとき、いちばん自由化が進み、例えば、伝統衣装であれば、いっきに「なんちゃって」化する。
「制服」との比較に話を少しずらすと、「なんちゃって」な伝統衣装が増え、その伝統衣装の本物が廃れるのは、放っておけば進行する。しかし、「なんちゃって」な制服が増しても、本物はべつになくならない。かといって、本物の制服は、じつは専門性のあるなしとかと、関係ないかもしれない。伝統衣装や制服といった、制約がある服と、制約がないとされる、所謂私服、結局、人は両方にあこがれる。
戦前の階級社会、戦後の年齢差を階層とする老人社会の後に、今は格差社会という言葉が喧伝されている。中谷巌氏だったか野口ゆきお氏だったか、もともとは戦争遂行の法制だったとして、終身雇用・年功序列賃金・郵貯を位置づけた文章があったような気がする。
ところで、「長幼の序について」の文頭にて紹介されている、サント・ブーヴの「わが毒」という随想集は、ジュンク堂書店での検索でみつからなかったが、原語版しかないのだろうか?

初出2009年12月17日(木)